2007年06月20日

ライフワーク

大切な人が出来た。

春が峠を越えようとしていた頃だ。

お菓子作りが趣味で、
音楽と映画を愛する、穏やかな可愛らしい人だ。

この場にどう書けばいいのか、
わからなくてずっと何もせずにいた。

何か言われるのが怖くて、
何も言えないでいた。

何が怖かったのだろう?


恋人が出来て、
僕は少しずつ変わりつつある。
そして、変わろうという意志がある。


僕は、
「この人を幸せにできなかったらこの先一体誰を幸せに出来るのだろう」
と本気で思っている。

まだ数ヶ月しか経っていないが、
ここまで“しっくり”来る人を僕は他に知らない。

この人とずっと遠い先の未来まで一緒にいたいと
懇切している。


このブログを長い間放置してきたけれど、
これをもって更新はストップすることにします。

もう、
絶望と諦念の拡大再生産を繰り返すことはやめようと思う。
不用意な言葉を不用心にばら撒くのはやめようと思う。

僕の中の、
ニヒリズムやシニシズムが消えたわけではないし、
「愛」だとか「幸せ」だとかを諸手を挙げて謳うつもりは毛頭ないが、

これだけは、守りたいのだ。
僕はこの人だけは守りたい。
そのためには最大限の誠意を持つし、
細心の注意を払う。

鬼神にだってなる。

僕はようやく道を見つけた。
ライフワークを手に入れた。


僕は意識を変えなければならない。

ここにいては、
僕はいつまで経っても、
“不幸を切り売りするナルシスト”の域からは出られない。

みんなここでの僕にそれを望んでいるのだ。

みんなが望む姿に僕はいまなりたくない。


打ち捨てられたプールに、
いまようやく水が流されようとしている。


僕は変わらなければならない。
そのためには何かを失う勇気が必要だ。






今までありがとうございました。


posted by ねじまき at 23:08| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月18日

サンクチュアリ

どこで曲がったらよかった?
どこで間違った?

この2ヶ月間、
圧倒的な混乱の中に僕はいる。

僕がここ数年間やってきたことが
全て足元から崩れ堕ちた、そんな気持ちで生きてきた。


だいたい、
僕の抱えているこの根本的な生きづらさは
僕自身が築き上げてきた矛盾に端を発している。

謙虚さの裏で、絶対的な自信とプライドを持っている。
誠実さの裏で、醜い欲望と意志の弱さを携えている。
孤独を謳いながら、本当は自分を知ってほしくて理解してほしくて空回りしている。


自分のサンクチュアリ(聖域)を確立しようとする一方で、
自分の世界をやりすぎなまでに開放している。


はは、だってさ、
今までやってきたことをさ、こうやってBLOGで
名も知らない人たちにあけっぴろげに書いていること自体が
間抜けにも程があるじゃない。
自分の聖域を作りたくて、大きくて頑丈な城を懸命に
造っている一方で、城の見取り図を事前に配って廻っているようなもんだ。
頭悪いんじゃないのか僕は。

もちろん、
世間知らずな僕は、「常識から考えて」間違っていることに関しては、
周りから指摘されて是正されなければならない。
僕にはまだ知らないことが多すぎるし、間違ったまま育ってしまった部分が多すぎる。
そういう意味で、ここに事実を連ねることに意味がないとは言い切れない。


ただ、
僕自身のサンクチュアリを守るという行為と、
社会的な不特定多数の正しさに沿うという行動の
線引きがどうしても今は引けないのだ。

引けなくていい。
自分は自分だ、そういう意見もあるだろう。

でも僕はまだそこまで自信を持って生きることが出来ない。


「人の死が受け入れられない」
「今日と明日を手動で繋がなければ生きられない」
妹はそう言った。
僕は彼女に適切な言葉を掛けてあげられたのだろうか?
僕の言葉が少しでもプラスに働くのだろうか?


なぜなら、
僕は逆だったからだ。

全てを受け入れ、全てを諦めている。

小学5年生で家庭の幸せを諦め、
中学を卒業する直前で、自分の能力の限界をある教師に指摘された。
大手企業に就職が内定した後で、
自分の人生のレールの終着点が見えてしまった。

後は逆算的にどう死ねばいいのかばかり考えている。

そして、そんな自分を抗うことなく受け入れている。


もうどうしようもねぇな。
もうどうでもいいや。



明日を落としても
誰も拾ってくれないよ

それでいいよ
posted by ねじまき at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月03日

影待ち

「人は人間関係を結ぶだけで必ず誰かを傷つけるし、傷つけられる」

僕が18歳の時に辿り着いた結論だ。この言葉はカタチこそ変わってはきたが、僕の根底にはずっと潜んでいた。
だから、僕は人と接することにずっと臆病であり続けている。


僕はあなたの影の部分にしか触れることが出来ない―――――。


先週、「You Say 'No'」で書いた娘と、
富士急ハイランドへ行ってきた。
彼女が短大に合格したのでお祝いに連れて行ってくれと言ったのだ。
まぁこういう文章を書いているので、なんとなく分かるかもしれないが、
僕は絶叫マシンが大の苦手である。
にも関わらず、彼女の要望に応えて、目玉アトラクションに何回も乗った。


彼女は本当に嬉しそうにニコニコ笑って、
透き通った瞳で僕に沢山の話をした。

僕は彼女があんなに屈託のない笑みを浮かべているのを初めて見たし、
あんなに綺麗な瞳をしているんだと内心驚いていた。


僕と彼女は、
お互いを兄妹と呼び合っている。


バイトの先輩後輩として知り合って、
お互いが自分のことを話し始めたのが今から一年前だ。
それから、いつしか彼女は僕を兄と呼ぶようになり、
それに応えるように僕は彼女を妹と呼ぶようになっていた。

彼女は僕より何倍も辛い人生を送っている。
僕の知識も経験も想像力も、そして僕の苦しみすらも、
彼女を救ってあげることはできない。

彼女の地獄の前に、僕はただ立ち尽くすしかない。

ただ、こうやって彼女の話を聞いたり、たまに会うことでしか、

彼女のプラスになってあげられることはできないのだ。
そして前の日記で言ったように、僕にとって妹は
「生きる指標」だ。彼女を裏切らないように、信頼に応えられるように、
僕は僕なりに、この陳腐で悪夢のような人生を精一杯生きていこうと決めた。

いつしか、僕は彼女を本当の妹のように思うようになっていた。

でも、
時々僕は不安になる。

そもそも僕のアプローチの仕方は正しかったのだろうか?
そして、これからも僕はうまくやっていけるのだろうか?


僕はいつだって、
人の影の部分でしか繋がることができなかった。
誰かの不幸や孤独にハイエナのように近づいていって、
「それ分かるよ」と陳腐な言葉を投げては繋がろうとしていた。

そしていつだって、
そんな「影待ち」のやり方でうまくいくはずはなかった。
多くの人は僕の想像を越えた影を持っていた。
僕は受け止め切れなかった。
そして、彼女達の「光」に僕はとうとう触れることはいつもできなかった。
彼女たちが幸せを手に入れた瞬間、僕の存在は不要のものとなるのだ。

何人かの人は僕の「薄い影」に呆れて僕の元を去っていったし、
何人かの人は、自分の幸せを手に入れて僕から離れていった。


みんなそうなるのだろうか。
やはり僕のやっていることは中途半端な偽善なのだろうか。


僕なんて消えてなくなっちまえばそれが一番いいんだろうな。


でも
2/26は、
僕と妹の「光」が初めて重なった日だった。
僕は(ある人に激しく否定されたが)、
自分のやったことに自信とプライドを持っている。
正しかったのだと思いたいのだ。
僕自身、妹と会って本当に良かったと心から思っている。
楽しかったのだ。純粋に。


ねぇ、
やっぱり偽善なのかな?
刹那的な正義感に溺れているだけなのかな?


何かあと一つ
決定的なあの言葉が言えないままでいる。


僕なんか消えてなくなってしまえばいいんだ。
言えないその言葉すら飲み込んで消えてしまえばいい。

posted by ねじまき at 10:50| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月25日

LOVE/HATE

救いようのないことを前回書いたが、
ようやく、業務自体は異常事態の終焉へと向かっている。

ここ数週間はそれこそ数ヶ月ぶりに土日しっかり休めるようになった。

先週は久々に実家に帰った。
もうすぐ母親の誕生日だったからだ。
珍しく我が家に客人が来ており、その方も交えて夕食を食べ、
僕は父親と呑みに行った。

翌日は父親と二人で犬の散歩をした。
近くの湖を二時間かけて一周する。
父親とそんなふうにして歩くのは生まれて初めてだった。
そういう意味で、犬が我が家に来て、家族を一つの場所に集めた貢献度は大きいだろう。

僕と父親は、経済の話や政治の話、音楽の話や小説の話はするが、
個人的な話はあまりしない。僕はたまに個人的な話をしようと試みようとするのだが、なぜか曖昧に逃げられる。そこには、5年前に亡くなった厳格な祖父と同じように振舞おうという父親の意志が見え隠れしている。

だが、湖を散歩した時、
父親は珍しく自分の高校生時代の話をポツポツ語り始めた。
この湖でどんなことをして遊んだか、バカなことをしたのか、
普段は思い出話など滅多にしない父親がさも嬉しそうに、
とつとつと話し始めたのだった。

僕は意外な気持ちで、でもちょっと嬉しい気持ちで聞いていた。

そして、「オレもあと2年で仕事辞めるからな」と
最後にポツリと言った。僕はそれに対して見当違いな返答しか出来なかったのだが、今思うと、あの時なんて答えればよかったのだろう。

その日は、
2月だというのに、まるで春のような温かさで
雨上がりの湖畔の公園は清々しい空気で溢れていた。


僕は、両親に対しては非常に複雑な思いを抱いている。
中学生の時、既に、「どうしてこの二人は離婚しないんだろう」
「こんなに憎しみ合っているのに何で結婚したんだろう」
という疑問というか諦めを抱いていた。
「僕たち子供がいるという足枷がなければ別れたほうがお互いの為なのにな」なんて考えていた。

僕は一方で、
両親のことが嫌いだ。父親/母親として、ではなく人間として。
呆れているし、理解できないとも思っている。

でもそんな親でも僕は愛している。
そして、いつか二人が「結婚して良かった」と思えるようになることが、長男としての僕の務めだと思っている。

だから僕はまだ死ねないし、
両親の幸せのためにも、僕が幸せにならなくちゃいけないと思っている。

ブランドに興味がなく、物持ちが異様に良い
母親には大したプレゼントは買ってやれなかった。
花とコーヒータンブラー。それでも母はとても嬉しそうだった。


僕はまだ死ねないし、
それが虚しいものでも月並みなものだとしても、
幸せにならなくてはいけない。

そう思った週末だった。

posted by ねじまき at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月12日

デラシネ

今朝、起きる時、
頭の中で「どさり」という音がした。


よく小説なんかで
心の中で何かが起きる時
「カチリ」とか「ピキッ」という擬音を使って表現するけど、
僕の場合は違った。「どさり」だった。


もう、何かが壊れ始めている。



死にたいようで死ねない
生きたいなんて思えない

そんな感じだ。
今の僕は。


積極的希死願望はない。
でもなんかもうどうでもいいや。って思っている。
「なぜ僕は死なないのだろう」白石一文は自著でそう呟いていたが、
僕の場合は、「僕の死を悲しむ人が確実にいるから」というのが答えになる。親、兄弟、友人、遠く離れた大切な人たち…。

そういう人たちが、自意識過剰とかじゃなくて間違いなく悲しむから、僕はまだ死ねないと思う。

そこに、僕の意志は、ない。


どう見定めたって、
僕は自分の生き方に納得できる日は来ないだろう。
制度としての社会主義が破綻するように、
思想としての資本主義がやがて終焉を迎えるように、
どうあがいたって、
僕は生きあぐね続けるのだ。

一番辛いのは、
間違ってしまったと分かっていながら、
その道からそれることができないこと。

その道をそれたところで、
ないものねだりを続ける僕は、結局はねじれの平行線へと
堕ち続けるしかないのだ。



社会的に死んでしまいたい。



僕はもういっそのこと「架空の人」になってしまいたい。
消えてなくなりたいとは思わない。

ただ、僕の存在を必要としてくれる人が、
少なからずまだいることは確かで、
僕はそういう人たちにとっての残存記憶として存在できていれば
それでいいと思う。
「あんな人がいたね。いろいろ楽しかったね。」
そう思っていただけたら、それで充分だと思う。
なぜなら、今の僕に会っても、もう発展性はないからだ。


みんな、
自分の家がある。帰っていく居場所がある。
僕はそれを手を振って見送るしかない。
幾人もの人が僕の存在を必要とし、
やがて帰る場所が見つかると、僕を置いて去っていく。

僕はデラシネ(根無し草)なんだ。

もうなんかどうでもいいや。



朝、起きた時の、
「どさり」という感覚が頭から離れない。


おやすみなさい。
posted by ねじまき at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月02日

空をなくす

前回の日記に書いたことは、
いろんな人からいろんなことを言われました。

僕はそれを真摯に受け止めて、
少しでもまっとうに生きられるよう改めていきます。

自分の愚かさに酔いしれることのないように。

まだ僕のことを信じてくれる人が少なからずいるので、
もう、彼/彼女を裏切るような真似はできない。



:::::::::::::::::


先月の過労働が130時間を越えた。
過労死する人がだいたい100時間〜150時間の過労働で死んでるから、
そろそろまずいかなぁと。

会社は構造改革をうたい、実際、業績も上向いているわけだが、
それに対する感慨も実感も何もない。

人員の配置換えによる
マンパワーの絶対的な不足、
その逆に改革に伴う、重い業務。

要は一人当たりの負荷が異常なことになっている。
と、先輩が言っている。
「今までこんなキツイことはなかったよ。
 一年目のお前はよく頑張ってるよ」
そんな言葉も投げてくれる。

まぁ“頑張っている姿”で評価してもらっても、
あまり意味がなくて、いかにアウトプットを出したかが問題なんだけど、
今は、プラスアルファを出す気力も余力も体力もない。

僕の業務の習熟のスピードを遥かに上回って
仕事のボリュームとレベルが大きくなっている。

なのに上司は
「君たちは趣味ややることがないから残業してるんだろ?」
とのたまう。

勘弁してくださいよ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



最近、
朝起きてから一日中動悸がするようになった。
胃痛も始まったし、いろいろまずい。

4月から封印してたソラナックスを
服用するようになった。


あとなぁ、
あれなんだよなぁ。

最近嫌なイメージが頭から離れない。

太い枝とか、太い横柱とか見ると、
考えるようになってしまった。


あの横柱は僕の体重に耐えられるかなぁ
どこから登れば効率的に縄を掛けられるかなぁ
どこに吊られてたら最初に発見されるかなぁ


まぁ実行に移すようなことは
多分ないだろうけど、良くないイメージが頭から離れない。



おやすみなさい。

posted by ねじまき at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月26日

僕のなかの壊れていない部分

僕のなかの壊れていない部分が、音を立てて崩れた。


前回の日記の続きを書きます。

かなり具体的で、長い文章になる気がします。
全ては言い訳で、身の保身に終始した文章です。



【事実】

事実だけを述べると、

先週の土日に 別れた彼女が僕に会いに横浜から静岡にやって来た。
ギターを習いたい、僕に会いたいと言って。

僕は彼女を迎え入れ、僕の住む寮や会社を見せつつドライブをした。
その後予約したビジネスホテルで、Syrup16gというバンドの曲を
ギターで数曲教える。
その後、居酒屋で話をしながら彼女の好きな日本酒を飲んだ。


その晩、僕は彼女を抱いた。


翌朝、「海が見たい」という彼女のために、
クルマで清水まで出かけることにした。
海を見ながらART-SCHOOLというバンドの曲を掛けながら
僕らはドライブをした。
そして、富士宮市の朝霧高原や湖をひたすらドライブし
いろんな景色を観て廻った。


そして、夕方、彼女はバスに乗って横浜に帰っていった。



【背景】

前のBLOGから読んでいた人は分かるかもしれないけれど、
彼女は精神を病んでいる。僕も精神を病んでいた(今は完治宣言をしている)。
そこで繋がりあって付き合ったのは一つの事実だ。

僕は彼女に幸せを感じて欲しいと
全力を尽くしたつもりだった。

けれども、
結局は彼女の重みに耐え切れなくなって、
僕は彼女を投げ出してしまった。
一年前のことだ。もう限界だった。
彼女のためを思ってしたことが何一つ実らず、僕は擦り切れていった。

しかしそれでも、
というか、そのせいもあって、“投げ出してしまった”という
罪悪感から、僕は別れた後でもできるだけ彼女のサポートをしていた。
電話やメールを通して、アドバイスをしたり、悩みを聞いたりしていた。

そして、今回、
彼女から「会いたい」という連絡があった。
僕は迷ったが、彼女がそれで幸せを感じてくれるなら、素敵な時間を過ごせるなら別に構わないと思った。


【問題】

問題は2つある。

一つは、別れた彼女には新しい彼氏がおり、
それを知った上で、彼女に来ることを許してしまったこと。

そして、彼女を抱いてしまったこと。


僕は今の彼氏を激しく苦しませてしまった。
彼女には「もし来るなら彼氏さんに正直に言うか、完璧に隠し通すかしないと駄目だ」と言った。彼女は彼氏を説得したようだった。
彼氏はきっと激しく混乱し、苦しんだことだろう。

僕と彼女という関係性の中だけなら問題はなかったかもしれない。
けれども、彼女を幸せにする一方で、僕は彼氏を決定的に傷つけた。


そして、僕は彼女と性交してしまった。

今回、会う前は彼女と性交をすべきではないし、してはいけない
と考えていた。しかし、結局の所、僕は彼女を抱いてしまった。
これはもう救いようがない。僕は自らの性欲に負け、意志の弱さを自らに突きつけることになったのだった。


彼女は今の彼氏を愛している。
そして僕もまた、彼女とよりを戻すつもりはなかった。

にも関わらず、かなりのリスクを負って彼女は僕と会うことを選び、
また僕も、中途半端な優しさで彼女と会うことを選んだ。
この関係はどう考えてもおかしい。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



僕は最低なことをしてしまった。

彼女は一時の幸せを感じたかもしれない。
横浜に帰るとき、彼女は泣きながら「ありがとう」を繰り返し、
涙をボロボロ流しながらバスに乗っていった。

それを見送った後で、僕はクルマの中で泣いた。

「オレは何をしているんだ。何てことをしてしまったんだ。」と。

僕の行動は、
彼女を一時的に救った後で、彼女と今の彼氏の生活をかき乱す要因になる。
彼氏は激しく傷つき、苦しみ、僕を憎むだろう。
彼氏が僕を憎むのは構わない。刺してくれて構わない。
ただ、それで2人の世界を壊してしまった自分の愚かさに
ほとほと嫌気が差してしまったのだ。

そして、
結局は性欲に負け、自分の意志を折ってしまった
自分自身に激しい自己嫌悪を覚えた。



              何が優しさだ!
               何が幸せだ!




僕は偽善者だ。脆くて根本的に間違った優しさしかもてない
腐った偽善者だ。愚か過ぎる。腐りすぎている。

こんなことを一生繰り返していくのだろうか。

もう自分が嫌だ。鎖で一生縛られるか、
どこかの壁に一生打ち付けられる方がまだマシだ。


混乱している。



僕は何をすべきだったんだろう。
どう行動することが、僕にとって、彼女にとって正しかったのだろう?



彼女には、もう2人で会うべきではないと最後に告げた。


だが、こんなことは繰り返されてしまいかねない。


僕はどうすればよかったのだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



混乱したままですが、
今日はここで終わります。

最後に。

前のBLOGの時にもいらしゃったようですが、
僕と彼女と両方の知り合い(現実でかネット上でかはわからないけど)が
この日記を読んでいるかもしれません。

どうか、
彼女には僕がこういう状態に陥っていることは言わないでください。
これこそが偽善以外の何者でもないことは重々承知ですが、

僕は彼女に楽しかった思い出だけを残してやりたいのです。
幸せを感じたままで居て欲しいのです。
それが彼女を投げ出してしまった僕の唯一の償いなんです。

偽善者です。知っています。でも、これだけは、
本心なんです。


長々とすみませんでした。
軽蔑してくれて構いません。



おやすみなさい。
posted by ねじまき at 00:36| Comment(17) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月20日

不浄な罪、過ちを

明日僕は、大きな罪を犯すかもしれない。


やっぱり駄目だ。


僕は偽善者だ。


優しさを履き違えている。


誰かの一時的な願いや欲求や逃避を受け入れることで、
どこかで決定的に他の誰かを苦しめている。
その苦しみは既に可視化している。


誰一人として幸せになれない。

あの女性はきっと一時の満ち足りを感じるだろう。
でもその人を大切に想う彼はきっと激しく苦しむ。
そして、僕は圧倒的な虚無感に襲われる。

誰一人として幸せにはなれない。



一番最悪なのは、
僕が今まで自分の行動に対して罪悪感を持っていなかったこと。
そして、罪を犯すかもしれない今この瞬間ですら、
何もできず、何をすれば分からず、何もしようとしないこと。



僕は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



あぁ、もう何も分からなくなってしまった。
何が正しかった?
どうすればよかった?
どこに行って何をすればいいんだ?



もう嫌だ。






ここでこんな中途半端な懺悔をして、
僕は救われようとしている。
最悪だ。


最悪だ。



今までにないくらい、
僕は自分のことが分からなくなっている。嫌いだ。


分かったことは、

僕は正常じゃなかったってことだ。





posted by ねじまき at 00:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月05日

圧倒的な違和感

前の日記で、あんなことを書いている傍らで
圧倒的な違和感を僕は感じている。

「人生を<半分>降りる」目標を立てている一方で、
僕は、どんな人生を歩むつもりなんだろう?


それなりに結婚して子供を作って、犬でも飼っていいクルマに乗って、
安らかな定年後を送る・・・。


そんな人生を僕は望んでいるのだろうか?


長男だから、いずれは田舎に帰って、老いた両親の面倒を見て、
やがて遺産相続のことやら、墓のこと、親戚付き合いのことで頭を悩ませるのか?



そんな人生を僕は望んでいるのだろうか?



そうだ。一方で僕は望んでいる。



穏やかで平穏な、「普通」の生活を僕は夢見ている。



だがその一方で、
僕は幼い時から、そういう生き方に違和感を抱いていた。
仕事人間の父親を反面教師として見ていたからだろう。
人とは違う生き方をしたいとずっと思っていた。

けれども、
特殊な才能もなく、踏み出す勇気もなく、
目の前の利益と名声に踊らされ続けた僕は、
こうやって、

いい高校を出て、いい大学に入学し、いい会社に入社した。


既に、ボタンを掛け違えているのだ



逆に何をすれば、
「人と違う生き方」だったのだろう?
芸術家にでもなればよかったか?起業家に?政治家に?

そうかもしれない。

でも一方で、
僕は中学生ぐらいの時から既に諦めていた。
自分には特別な才能もなければ、血が滲むような努力もできない、
レールから外れる勇気なんて持ってないんだってことを。

ただ、
場の空気を読んで、いろんなことをそれなりのバランスでこなすことには長けていた。
人の顔色を伺って、ピエロになることで、社交的にもなれた。
それだけだ。だから、今僕はここにいる。


まぁ誤解しないでほしいのは
別に今の状況を真っ向から悲観しているワケではない。
こうなるべくしてこうなったと今は思っているし、
それなりに今の自分に満足もしている。

要はただのないものねだりに過ぎないのだ。


こんなないものねだりを
BLOGという形態で、ナルシスティックに難解な言葉を羅列して、
散文的に表現しようと試みて、自分に酔っているだけなんだよ。



と、言ってみたものの、
この「圧倒的な違和感」は当分拭い去れない。


僕はどう生きたいのだろうか?
そして、どう死にたいのだろう?


そろそろ、
カタチにしていったほうがいいかもしれないな。

計画はできそう?
それも無駄。
posted by ねじまき at 23:24| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分からの脱却

年が明けた。
それなりに僕の周りにも、僕の家族にも、僕の街にも、
正月の空気が漂う。


元旦の朝は、どうしてああも穏やかなんだろう。


僕は毎年、
自分に一年のテーマを課す。

去年は、
「きめ細やかな大人になること」だった。
不必要な言葉、不用意な行動で人を傷つけないように、
自分の言動に責任を持てる大人になりたいというものだった。

それは勿論、意識し続けてはいたが充分にはできなかった。


それを踏まえたうえで、今年は、
「自分からの脱却」をテーマにしたい。


僕は今までずっと、
自分本位でしか物事を考えられてこなかった。
興味関心は全て、その行為をしている自分自身にあった。


恋愛も一人旅もカメラも読書も全て。

これではいけないんだよ。

僕はもっと、アンテナを外に向けないと。


今の僕の状態は、
心理学上はまだ「思春期」という枠に当てはまってしまう。

「自分」という枠の向こうを見ていかないといけない。



そして、文字にするだけ陳腐なことこの上ないのだが、
今年はちゃんと、一人の女性を大切にできるようになりたい。
(要は恋人が欲しいってことです)
僕の残り少ない優しさを、ただ一人の女性のために
全て注ぎ込めるようにしたいのだ。

その人を全力で幸せにしてあげられるようになりたい。
そして、それでもって僕も幸せを感じられるようになりたい。

ようやく、
僕も自分の幸せと、面と向かって向き合えるようになったなぁ。
ふぅ。

ただ、それに至るプロセス(彼女を作るまでの過程)が
めんどくさいんだよなぁ(笑)。

僕も合コンやら誰かからの紹介なんかを積極的に行うようになるのだろうか?


考えただけでもうんざりする。


そんなことするぐらいだったら、
やっぱりいいや。


posted by ねじまき at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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